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Writer's picture ダビッド トゥルーベック

ヤコブからイスラエルへ  苦闘と霊的成長の道


今回は、創世記28:10- 32:3のトーラー・ポーション*〈ヴァ・イェツェ〉Vayetze(「そして彼は出て行った」)についてお話ししたい。預言書からはホセア書7:11- 12:11を、新約聖書からはヨハネ1:35-52を読む。


この聖書箇所には、あなたが想像できるあらゆるタイプの物語がある。


家族のスキャンダル、兄弟間の憎しみや陰謀、そして一目惚れの要素も見られる。家族の中には嘘と欺瞞があり、ビジネスに関する知恵も学ぶことが出来る。


ヤコブの人生、特にこの物語は、エキサイティングでスリルな筋書きかもしれない。トーラーのこの部分の背景を、簡単に説明しよう。イサクは年老いて盲目となり、死ぬ前にお気に入りの息子エサウを祝福しようと考えていた。しかし妻のリベカはそれを耳にし、代わりにヤコブに祝福を受けさせようとした。彼女はヤコブにエサウの服を着せ、手と首をヤギの皮で覆ってエサウのように毛むくじゃらにした。この策略が功を奏し、イサクはエサウを祝福しているつもりだったが、ヤコブに長子の権利を与えてしまった。


この後、ヤコブはエサウから逃げなければならなかった。父親が死んだ後に弟ヤコブを殺したいというエサウの思いを、リベカが知ったからである。リベカは巧みな手口でイサクを説得し、ヤコブを北のアラムにいる彼女の兄弟ラバンのもとへ送ることにした。彼女はイサクに、ヤコブは現地のカナン人の娘と結婚しない方がいいと言ったのでイサクはこれに同意し、早速リベカはヤコブをネゲブ砂漠のベエル・シェバから約350マイルの長旅に送り出したのだ。


ヤコブはスーツケースいっぱいの衣類や「物」を持って、旅に出たのではなかった。ヤコブが持っているのは羊飼いの杖と、おそらく食料の入った小さな袋だけだっだ。彼はベエル・シェバを出て、突然、原文にあるように、「そこで彼はある場所に来て、日が沈んだので一晩そこに留まった。そして、その場所の石の一つを取って頭に置き、その場所に横になって眠った。」[創世記28:11]


ヤコブが夜を明かすために予約した場所や、モーテルの名前が無いことに注目しよう。"ある場所!" とあるようにベッドも枕もなく、彼は石を取り、それを枕のようにして頭の下に置き、とても疲れていた若者は眠りに落ちた。まあ、石を枕にして寝るのは、安宿に泊まるのとも違うことだ。しかし、その夜、ベニヤミンの丘でヤコブに特別なことが起こった。


「そのとき、彼は夢を見た。見よ、地上に梯子がかけられ、その頂は天に達していた。見よ、主がその上に立って言われた、『わたしはあなたの父アブラハムの主なる神、イサクの神である。あなたの子孫は地のちりのようになり、西と東と北と南に広がる。見よ、わたしはあなたがたと共にいて、あなたがたが行くところどこででもあなたを守り、この地に連れ戻そう。[創世記28:12-15]

創世記には、ヤコブを中心とした物語が複数ある。神がヤコブの上に立って語りかけるこの夢のシーンは、間違いなくヤコブの人生で最も力強い出来事の一つである。


ヤコブが夢の中で見たこの一節の意味とは? 

これは、15世紀末のスペインの有名なラビ、モーゼ・ベン・ナハマニデスがその注釈書に書いたものである:


「預言的な夢の中で、主はヤコブに、地上で行われることはすべて天使の影響を受けており、すべては至高の方によって定められていることを示された。永遠なる御方が地上を行き来するために遣わされる神の天使たちは、全地の主人の前に姿を現すために戻ってくるまでは、小さなことであれ大きなことであれ、何もしない。主はさらに、祝福された御方が梯子の上に立っておられることをヤコブに示し、ヤコブがどこへ行こうとも、御自分の天使たちにヤコブを監督させ、ヤコブを守るようにされるから、主はいつもヤコブと共におられる、と至高の保証をもってヤコブに約束された......」。


つまり、ラビ・ナハマニデスがこの注釈で述べているのは、神がこの夢の中でヤコブの前に現れ、ヤコブの運命が安全であること、そして、ヤコブの行く手に待ち受ける苦難にもかかわらず、ヤコブが歴史において神から定められた使命を果たすことを確信しておられる、ということである。ヤコブに起こった次の出来事から、ヤコブがこの夢を理解したことは明らかである。ヤコブは、神が何があっても自分と共にいてくださること、神の天使たちが天と地の間を行き来してヤコブのために執り成し、守ってくださることを理解したのである。

この章は、信仰者である私たちに、この世での生活には苦難がつきものであるが、私たちの人生における神の存在は希望と力を与えてくれることを教えている。ヤコブと同じように、私たちクリスチャンも、常にストレスにさらされている必要はないのだ。困難はあるだろうが、それを乗り越えるだけでなく、もっと苦労しているかもしれない周囲の人々を支えるだけの十分な恵みもあるのだ。


そんな中、過越の祭のときに歌う次の歌の言葉を思い出すことができる―「私たちの祖先と私たちのために立ってきたのは、これです。私たちを滅ぼそうとしたのは、一人の人間や国だけではありません。どの時代にも、彼らは私たちに立ちはだかる。しかし、祝福された聖なる方は、私たちを彼らの手から救ってくださる」

この歌は、神が歴史を通してご自身の民に与えてくださる永続的な保護と救いを強調している。


新約聖書に照らしてこの場所を見ると、ヨハネによる福音書1章51節のイエスの言葉が重要である。そこでは、偽りのない真のイスラエル人であるナタナエルに向かって、イエスは言われた:"あなたがたは、天が開け、神の御使いたちが人の子の上に昇り降りするのを見るであろう。"新約聖書の中で、このような光景が見られる場所が他にないことは興味深い(ゲッセマネで、主が苦悩しているときに天使が天からやって来て、私たちの主に奉仕した場面を除いて)。

しかし、イェシュア(イエスのヘブライ語名)は天使の華麗なスペクタクルに言及しているのではなく、ご自身がヤコブの梯子の意味の成就者であることをナタナエルと私たちに語っているのだ。梯子の一番上に立っておられるのは、この方なのだ。この方を通して、天と地の間のコミュニケーションが保たれているのだ。私たちの賛美と祈りは神に向かい、神の憐れみと恵みはメシア、キリスト・イエスによってのみ私たちに下ってくる。


** ヘブライ語では "パラシャParashah "と呼ばれる律法箇所は、ユダヤ人の間で毎週安息日に読まれる律法(モーセの最初の五書)の特定の部分を指す。トーラは54の部分に分かれており、1年を通して全てを読むことができる。それぞれの部分には、ユダヤ教の伝統と信仰にとって重要な教えや物語、掟・リップがが含まれている。毎週の朗読は、シナゴーグでの解釈や議論とともに行われることが多く、ユダヤ教の礼拝と研究の中心となっている。


主がイスラエルの救いのために計画を持っておられることを理解することは、私たちに、神の計画の一部となり、イスラエルの救いのために祈り、福音を広めるユダヤ人の働きを支援することに積極的に参加したいという願望を抱かせるはずだ。


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